朝倉市制施行10周年記念事業として作成された「頓田の森 戦後70年の記憶」に掲載されている対談を掲載させていただきます。一木爆死学童遺族会 会長 窪山 強一氏へ朝倉市平和事業実行委員会 田中 千恵子氏と小島 美子氏が伺った対談です。
なんとしてでも農業を継がねば
改めて戦後70周年の感想をお尋ねします。
我々にとっては一日一日あっての70年です。3月27日の慰霊祭と夏と、毎年来るものですから、70年とは(遺族会からみれば)外の人が思うこと。しかし、もう70年かと思うと、歳も感じるようになりました。改めて考えると70回目というのは意味があると思います。頓田の森の悲劇を知る人が少なくなって、確実に事実が伝わるかということが心配です。時代の流れとしてそれは仕方のないことかもしれませんが。
終戦の年(昭和20年)の立石国民学校はどんな様子でしたか。
私は、小学校の2年生でしたからね。学校も軍国主義にならっていた、それが普通でした。警戒警報のサイレンが鳴れば学校から帰って良い、そんな感じの日常でした。学校では普段の訓練のなかで耳をふさいで伏せるなど、やっていましたね。
窪山さんの当時の家族構成は?
四男六女の四男でしたが、上の三人の兄が流行病でなくなっていたため自分は長男とばかり思っていました。両親と祖母がいて、農業をやっていました。手伝いは当たり前、上級生にもなると一人前の働き手でした。
学校での戦争の影響は?
あまり覚えていませんが、戦争末期ですぐサイレンが鳴り帰っていました。恐怖感の中での生活でしたね。でも普通に勉強はしていましたよ。
窪山さんは、兵隊になりたいと思われたことはありますか?
家を継ぐということで、兵隊になるとは思っていなかった。父にも徴兵はなかった。しかし、通学路に飛行学校の生徒隊がありましたからね。りりしい格好の門兵をみて憧れはありましたね。
当時の家庭の食事はどうでしたか?
粗末な食事でした。農家で米をつくっていたんですが、拠出米が多く、芋ご飯や豆ご飯ばかりで、農家でありながら、米があっても家ではあまり食べられませんでした。調味料(塩、味噌、醤油)があまりなく、そんなにおいしいものではなかったですね。
一木からもたくさんの若者が出征されたでしょうが、お見送りとか記憶がありますか?
小さかったからあまり記憶にないですね。大勢で旗を振って出征兵士の見送りなど、映画にあるような仰々しいことは甘木の町の事で、田舎では見かけませんでしたが、あっていたのでしょうか。ただ、親戚の軍人の慰問に行った事は覚えています。
昭和20年3月27日のあの日のことについて、お尋ねします。
終業式当日。警戒警報から空襲警報に変わって、慌てて集団下校したんです。それ以前にこの辺りでは爆弾が落ちた事はなかったが、めったに鳴らない空襲警報が鳴ったので切羽詰まった感じでした。非常時には、来春を通ってもいいことになっていました。散り散りに三々五々帰っていきました。敵機かどうかはわからなかったのですが、大刀洗飛行場に爆弾が落ち始めて、これは大変なことになったと思いました。
敗戦の感はありましたか?
新聞ラジオの報道は勝ち戦のみでしたが、19年の終わりに東京大空襲があっていましたからね。バケツリレーなどの訓練はあっていました。
頭は割れて片足がちぎれた姉をみて
母は泣いた
お姉さんを亡くされてありますが、どんな状況でしたか?
父親が区長をしていましたので、「小学生が帰っていない家は、学校に行くように」と触れてまわっていました。姉を家に連れて帰ったのは父親で即死の状態でした。姉の頭は割れてしまって、父親がタオルで頭を縛って連れて帰ってきました。足も、片方がちぎれてぶら下がっていたそうです。あとから聞いた話ですが、冷たくなった娘を迎えて母親は泣き崩れました。そして「娘を病院に連れて行こう」と父親に言ったそうです。どうしようもない中で、それが母の本当の気持ちだったんです。
窪山さんご自身もケガをされたそうですが?
足のかかとに爆弾の破片がつき刺さっていて、足がつけない状態でした。陸軍病院へ連れていかれましたが、大刀洗飛行場から運ばれてきた怪我人で病院は騒然としていました。自分は痛みがあまりなかったので後回しにされ、見てもらえたのは夜中でした。夜中に敵の偵察隊が飛んできて空襲警報のサイレンが鳴り、またやられるのではないかと病院に動揺が走ったのを覚えています。ケガは破片が入ったまま、ガーゼを詰め込んだらしく、しばらくして高熱が出て天井がぐるぐるまわるくらい痛みましたが、幸い取り替えたガーゼの端に破片がひっかかって出てきてから熱は下がりました。自分は軽症者ということだったのかもしれません。重傷者もそれぞれ自宅に帰り、数日後に亡くなった人も多かったですね。甘木の水町の林病院にも怪我人が何人もリヤカーで運ばれていました。私の友人には、頭に小さな破片が突き刺さったままで最近生涯を閉じた人もいます。
生死を分けた
どこにいたのかを話すことはタブー
「太刀洗飛行場物語」が出版されて、悲劇の真相が浮かび上がりましたが、遺族会の方々の反応はどうでしたか?
当事者の思いは大変複雑でした。特異な例ですからね。なにせ、子どもが爆弾で死ぬなんて、戦争の犠牲になったのが兵隊ではなく子どもたちですからね。あってはならないこと。引率の先生の集団下校中の出来事(頓田の森へ引き返した)もありましてね。犠牲になったのは一木地区の子どもたちだけで誇らしげに話すことでもない、心の奥にずっとしまっておいたんですね。遺族会の人たちは、頓田の森の悲劇をいろんな形で本が出版されることをいい感じでは思っていなかったですね。毎年毎年その話が出て、生々しいことが記されていた一木児童遭難顛末記(昭和五十年再発行)に対して、そっとしておいて欲しいという言う気持ちのほうが強かったのが、本心でしょうね。実際私はこの話をするときに、この本を参考にしながら話をしていました。
B-29から誤って投下された爆弾が頓田の森に落ちたとき、子どもはどこにいたのか。子どもが亡くなった家の者も、また子どもが助かった家の者も、お互いに聞かなかったというより、聞けなかったんですね。最初にみんなで逃げ込んだ橋の下にそのままいたとか、先生の命令に背いてそのまま家に帰った子どももいましたし、みんなで走りだしたとき低学年だったために桑畑のなかに取り残されたり、怖くなって民家に隠れたために無事だったりで、私たち一木の子どもは極限の状態のなかでいろんな行動をとりましたから、それが生死を分けたのです。だからどちら側の親たちもその話をしなかったんです。タブーでした。だからこの話は広がらなかった。悲劇の事には触れない、悲劇の話はしない時代が続きました。自由に話ができるようになったのは、ずいぶん日にちが経ってからです。
これから遺族会はどうされますか。
時代が変わり、若い人に遺族会を引き継ぐ時が来ました。遺族会のなかでさえ顛末記を見るなりしないと、詳しく知らない世代になりました。慰霊祭を続けるのは続けるのでしょうが。
青年会議所が頓田の森を開墾しましたが、どんなお気持ちでしたか?
とてもありがたいことで感謝しています。戦争が終わってまもなくお地蔵様を建てる時もどこに建てるかで、いろいろ議論があり、いつも子どもたちが遊んでいた一木神社にお願いして建てさせてもらいました。ただ何十年もたって、まだ慰霊祭なのかという声もあるらしいとも漏れ伝わってきました。頓田の森は今でも個人の土地のままで、地権者と青年会議所の借地契約が続いています。
まもなく悲劇の証言者はいなくなる
戦後70年の年、今の政治の動きにご感想をお願いします。
戦争で得るものは何もありません。戦争に正義はないと言ってきましたが、いろんな考え方の違う人も多くなりました。日本の集団的自衛権の問題も、これが一番良い方法だというものがあれば、歩み寄ったり賛成したりするけれども、そういう時代が本当に来るのか、話し合いで解決できる時代が来るのかという不安がありますね。戦争体験者のいない時代になれば、勝手にいろんなものが決まっていくのではないか、武力で押さえつける時代がまた来るのではないと案じています。戦争は多くの関係ない人達を巻き添え、犠牲を強います。それがたとえ子どもたちであっても容赦ないということを訴えてきたが、悲劇の証言者もすでに少なくなり、今は兄妹たちがやっていますが、近いうちに生き証人はゼロになります。そうなりますと、もはや個人とかではなく大きな組織とかが語り継いでほしいと思っています。(文責 岩本雅子)
聞 き 手 | 田中千恵子 | 小島 美子 |
記 録 | 柿原 博美 | 岩本 雅子 |
カメラマン | 野田 眞直 |