一木児童遭難顛末記

ひとつぎ じどう そうなん てんまつき

はしがき

 昭和二十年三月二十七日の空襲に於ける大惨事は空前の出来事であり、立石校職員一同痛切に責任を感じているところであります。
 早や満四年になります。当時の先生は全部転任され、残るは私一人となりました。ところが、年がたつにつれ、当時の模様がぼやけて来ました。このままですと、はっきりしないようになるだろうと思われますので、私の記憶をたどり、当時のようすを感じたまま記録し、わすれがたみとしたいと思ってこの文を書いたのであります。
 私の感情を入れねばどうしても心持があらわれませんので、この記録は、私のものであり、私中心に書いたものであります。

昭和二十四年三月二十七日 高山剛平 記

発 端

 忘れもしません。昭和二十年三月二十七日修業式の日であります。修業生五百名は、修業式というので喜々として登校しました。掃除後一同は講堂に入場し、式は形の如く進んで校長の訓話となりました。 ちようどその時(十時頃だったでしよう)突然サイレンが鳴りました。一同色めきますと、校長は、職員にラジオを聞き状況を正すよう命ぜられ訓話を続けられました。(これというのは今迄警戒警報は出ても空襲警報が出ることなく全然何事もないことばかりであったからであります。)
 職員がラジオを聞き、今のが警戒警報であったことを知らせると間もなく空襲警報が出ました。今は少しの躊躇もなりません。職員は直ちに児童を地方別に集め平常の訓練通り引卒帰途につきました。中尾訓導は、林間学園に見幕を集め、一ツ木さしてまっしぐらに走ったのですが、先頭が大添橋近くに行った時、B29の来襲を知りました。中尾訓導は、直ちに附近の溝に児童を待避させました。
敵機は、大刀洗を爆撃しています。続いて第ニ第三と五分位の僅かの時間をおいて来襲します。
 この間にあって、この児童をいかにすれば最も安全であるか、中尾訓導の心配は、このことにあったと思います。一ツ木へ帰るには、是非共生徒隊と病院の間を通りぬけねばなりません。もし一Iツ木まで全員無事に走り帰る時間があれば帰らせようが、万一途中で敵機が来襲し、病院、生徒隊を爆撃して児童もその犠牲になるようなことがあれば重大なる責任である。どうしよう。中尾訓導は迷つたでしよう。この時の中尾訓導の心配苦言想像するに余りあるものがあります。
遂に中尾訓導は、心を決めました。即ち危険な場所を通らせず額田に引き返そうと。
  これが結果からみれば、最悪の場所に追いこんだことになり、空前の悲惨事を起すことになつたのであります。

悲惨事勃発と処理

 私は、二軒屋まで児童を送り、学校に引き返しました。その内B29の爆音を聞きましたので、残った児童と共に学校の壕に待避しました。今度の空襲は、余程近いとみえて、壕が崩れはせぬかと思われる程でありました。私のそばにいた児童などこの壕は危いといって他の壕に移った程でありました。
 第五編隊が来、第六編隊が来ました。いづれも学校附近を爆撃したと思われ、その恐しいことは身の毛もよだっ程でありました。第六編隊の後は、敵機来らず、私達は、壕から出て学校を見廻っていますと、中尾訓導が顔は土まみれ、息せききつて走ってきました。
 「児童がやられました。どうにも手がつけられません。早く来て下さい。」私は、はっと驚きましたが、怪我人があるとのことで学校の広い戸をはずし、それをもって走りました。森につくと、竹は根こそぎ、或はちやせんのようになり、広さ一反歩以上すっかり払われています。中にあつた直径尺余の大木数本途中からぶつつりと断ち切られ無惨な形となっています。見れば中央の所に直径十五メートル位の大穴があいています。そのものすごいこと、その威力にどぎもをぬかれました。この大穴の回りに児童は、かねての訓練通り耳に指をあて伏せの姿勢をとっています。嗚呼、しかし、これは伏せをしたまま即死した子供でありました。私は、この多くの伏せをした子供をみてずんとしました。気も転倒しました。今思い出してもぞっとする光景であります。大木の下に敷かれながら、「先生、先生」と呼んでいるものもあります。
 「先生、先生」と叫ぶ声が、そこここから聞えます。その時の様子は、これ以上書けません。
 私達は、早く病院に運ばねばならぬし、話し合って仕事につきました。私は、負傷者二人を戸に乗せ、高等科生二人を向うにまむし運びました。ちようど一ツ本道に出る頃、大平山の方にB29の爆音を聞きました。私は来たなあと思って、近くの暗渠の中に待避しようと決心しました。戸から抱えて下そうとすると、子供は痛い痛いと訴えます。怪我人を動かすので痛かろうと思いますが、動かさぬわけにはいきません。「辛抱してくれ、命には代えられませんよ。」といって運びますが、一寸動けば痛いと言います。私は、気の毒に思いましたが、励まし、暗渠の中に入れました。暗渠の中はどぶです。
 負傷者は立たせていることは出来ません。伏せれば泥にまみれます。しかし泥にまみれることより何より命には代えられません。私はなるべく水気の少ない所に寝せました。子供は、本当に痛そうです。私は、こんなみじめな目にあったことかありません。早く敵機が帰えるように心から祈りました。
 爆音が遠ざかり敵機が去った時の嬉しさ、早速暗渠の中から運び出し自動車の所まで連れました。ここで自動車にのせ、再び森へ急ぎました。幸い陸軍病院の衛生兵の方がお出でになって、応急の処置をして下さいました。私達は、これに力を得て次々に負傷者を運びました。自動車に乗せた負傷者は、甘木の私立病院に入れよとのことて困ってしまったそうですが、豊原訓導が強硬に主張して、とにかく陸軍病院にやってくれと自動車を乗り入れました。ところが陸軍病院では拒絶されることなく心よく親切に世話されました。本当にほっとした訳です。
 私共は、病院の担架を借りて負傷者を病院に運びました。私が運んだのは北川君でしたが、頓田の森を出て「水、水」と叫びます。「今、飲んではいけない。暫く我慢してくれ」と言いますが、なかなか止めません。余程渇いているとみえ「水、水」と叫びます。大怪我人に水を飲ませてはいけないと間いていますから「我慢せよ、我慢せよ」と励ましましたが、森を出て病院に着くまで、「水、水」と叫び続けたのであります。後で北川君は、とうとう亡くなりましたが、どうせ死ぬのだったら、あの時水を飲ませてやればよかったとも思いました。
 負傷者運びがすむと、職員は病院の方と学校の方と二つに分れました。私は、学校の方に残ることとなりました。この間に於て、校長、教頭の心配は非常なもので、何彼と注意され指導されたのであります。即死者は取りあえず林間学園に運んだのですが、仏にかける物かおりません。用務員の岩崎が気の毒に思って自分の毛布をもってぎて掛けてくれました。しかし、その他は何も無いので、止むなく蓆を掛けるというような粗末なことでありました。
 即死者は、三ケ島幸子さん、以下敬称略、深江洋美、同玲子、田中清子、飯田昌子、矢山百子、原田豊、水城厚子、中村英樹、早野進、石井貞雄、窪山兼弘、深江勲、窪山千恵子、高山博子、早野日出子、田中シズヱ、同てる子、北川平房、桑野千恵子、小田久光、窪山利子、同邦子、同小夜子以上二十四名でありました。
 一ツ木部落長座山肋五郎氏は、空襲後警防団の方を見舞われ、学校が気がかりになられたので学校に来られました。ところが、見てびっくりされ、これは一人や二人ではどうすることも出来ないと直ちに一ツ木に引き返し「もし子供が帰って来ぬようでしたら早く学校に行くように」と言って廻られた。一ツ木から父兄の方がお出になりました。ところが、ここに困ったことが出来ました。これは警察から死者を動かしてはいかぬと言う達示があっているということであります。
 人々は、死者のまわりに集ります。この時窪弥作さんが「このままにしてどうします。おれの子供は、見せ物ではない」と言われて連れて帰られました。これにつれて皆それぞれ連れて行かれたのであります。その沈痛な面もちで連れ帰られる姿を見ます時、真に身を締められるような思いがいたしました。中村少尉殿は、つかつかとお出でになりましたが、即死なされたお子様をきっと抱きあげ「よし、お父さんがきっと仇はとってやるぞ」とおっしやった言葉。
石井貞雄君は、頭を半分ぷっつりと断ち切られ色青ざめていますので、担任の私でさえ見わけがつかぬ程になっています。誰れであろうかと話していますと、奥さんがお出でになって直ぐに「おお、これは貞雄です」と言って悲しまれた様子。今尚眼底に残って終生忘れることの出来ない悲壮なことであります。戦争中で皆敵慨心に燃えている時でありますから、表面は気強くしていられるようにありますが、お家に帰られた時、一瞬にして他界せられたいたいけなお子様を見られてはどんなであられたでしよう。その悲しみを想像します時、気の毒とも何とも申し上げる言葉がありません。
 特に深江仁作さん、田中重太郎さん、北川藤四郎さんなど二人も一緒に亡くされた方のお気持、真に気の毒なものがあります。
 早野日出子さんは、一人娘で特別可愛がられていられたようでありますが、呼べど答えずあわれな姿となって帰られました時、御両親のおなげき如何ばかりであったろうかと思います。
 高山博子さんは、身体が弱くて、祖父様から病院に連れ行かれ、祖父様の自転車に乗ってよく学校に来られました。高山徳市さんも心から博子さんが可愛いい様子で連れて来られる度に先生に頼んで帰っていられました。これが何度も何度も続いたのであります。それだけ手を入れていられたお子さんが一言の言葉をかわすこともできず、あわれな姿となって帰られたのです。どんなにか残り惜しくあられたでしようと推察致しました。
 まして窪山弥作さんに至っては、三人のお子様を一瞬に亡くされました。三人枕をならべて伏せていられます様子を御覧になった時、どんな心であられましたでしよう。ぐったりと力をおとされ、ものも言えない位であられたでしようと想像いたします。
 こうして即死なされた方は、親様の非常なおなげきと、おいつくしみのもとに一応、お家に連れ帰えられになったのであります。
 その頃、段々と見舞の客がお出でになりました。私共は、応待しましたが、二人三人、五人とふえ、見舞の客は廻り一ぱいです。この聞に於て、私は気がいらいらして、ろくろく応対が出来ませんでした。

病院の夜

 夕方から学校職員は交替して、一部は学校を警備し、一部は、病院に行くことにしました。私は、病院に行くことになりました。入院の負傷者は軽傷者もありましたが、重傷者も多かったのであります。
 中村セキさんは、病院まで運びましたが、手術後間もなく死亡されました。
早野一登君、これも大負傷、やっと手術はしてもらわれましたが、二十分もたたぬ内に死亡されました。お二人共大負傷で、手術はしても、とても助かることはないと思っていたと類様方は話していられました。その他の方は、手術後病院の広場に安静することとなりました。重傷者は、玉山栄造君、早野正男君、窪山安美君、北川伊助君、早野博己君、早野正治君、以下軽傷者と二十人近くもありました。
 私が職員と交替して病院に参りました時は、早野博己君は危篤に陥り私が行ったのもわかりません。あの元気合の博己君がと思いますが、刻々衰えてゆくばかりです。親様の元気付けも甲斐ありません。あたりはシーンとして、ただ博己君を見守るばかりであります。こうして、親様の真心も通せず、遂に博己君は逝ってしまいました。重傷者は、時々うわ言をいわれます。軽傷者は苦痛を訴えます。病院内のあわれさ言葉も筆も及びません。朝、運動場で元気よく遊んでいた児童が、こんなになったかと思うと感慨無量であります。
 北川伊助君も重傷。肩の骨の現われるまで肉を取られ出血多量。刻々と衰えゆくばかり。「伊助さん、しっかりしなさい。しっかりしなさい。」とお母様の悲痛な叫び声、今尚私の耳に残っています。
 窪山安美君は元気者でしたが、時々「なによ」と叫びます。きっと敵慨心に燃え、敵兵と戦っているのではないかと思いました。
 早野正男言は、ただこんくとして眠るばかりであります。余程衝動がひどかったのでしょう。私は為すこともなく唯々この重傷者を見守るばかりてあります。病院の中は、全く悽惨な気に満ち満ちしています。
 やがて十一時頃でしたでしょう。警戒警報が発令されました。病院内は色めきました。病院が爆撃されるとの噂で一ぱいであります。今晩だけでも来てくれねばと、しみじみ思いました。しかし、やがて空襲警報が発令されました。
 病人は、軽傷者から順次避難を始めました。職員は、それぞれ病人に付き避難の加勢をしました。病人を動かすのですから、なるべく傷が病まぬように、そつと運ばねば苦痛を訴えます。
 一人でさえ骨折りますのに窪山茂美さんなど、重傷の窪山安美君、軽傷の窪山フクヨさん、同茂八郎君と三名もありますので、その困難も一通りではなかったと思います。
 ここに石井福次さんが奥さんは、主人は防衛隊に出られて不在です。長男の貞雄君は今朝の爆撃で即死されています。その上次男の廣さんは、負傷されて病院に来ていられるのであります。奥さんは、即死の政雄君を乳母車に乗せたまま家に置きざりにして、赤ちゃんを背負って廣君の介抱に病院に来ていられるのであります。真に気の毒の至りです。本当に情ないことです。 私は、奥さんが、赤ちゃんを後に背負い、前に病人を抱えて途方に困ってあるのを見て「手伝いましよう」といって怪我人をとりました。病人を抱え奥さんと二人皆の後から病院の北側に出ました。
 病院の防空壕は浅くて覆がありません。皆は、病院外の北の畑に出ているようであります。私達もその後について行きました。幸い溝がありましたので、皆はこの溝に一列に長くなっています。私達もこの溝に伏せました。
 その内、軍人の方が毛布を持って来て下さいました。私達は、喜んでその毛布を頭からかぶり、溝の中に伏していつ敵機が来るか不安な気持ちで待ちました。やがて、敵機の爆音がして来ました。軍人は、東或いは北西などと飛行機の方向を合図していられます。
 私は、廣さんをうっむかせ、耳に指で栓をさせました。飛行機は、私共の上をぐるくと廻っているように思われます。いつ爆撃されるかと、気が気ではありません。生きた気もしませんでした。どうか爆撃をせず帰るよう一心に祈りました。その内爆撃音は去りました。爆撃されずよかったとほっとしました。しかし、この喜びも束の間で再び爆音はして来ます。私共は、前のように伏せました。こうして、三度、四度と数回にわたり敵機は私共の頭上に来ました。
 今朝からの爆撃で恐しいことは知っています。自分も今朝爆死した子のあとを追うのではないかと思いました。本当に生きた心地はしませんでした。この時位情ない思いをしたことはありませんでした。一刻も早く敵機の退散するよう祈りました。数度、敵機は来襲しましたが、幸いに爆撃はしませんでした。
 いよいよ空襲警報の解除されました時の嬉しさ、一同はほっとしました。私共は、出る時のようにいたわりあいながら、再び病院に引き返しました。
 この間にあって最も悲壮を感じましたのは、北川藤四郎さんです。いよいよ空襲警報が出ました時、皆は避難、避難とさわぎましたが、「この病人が動かされるか。自分は爆撃されても動かぬぞ」とがんばられました。子を思う親心、真に尊く思われてなりません。こうした親様の決死の介抱にもかかわらず、北川伊助君は刻々に弱り行きます。遂に輸血より外に道なきまでになりました。この時、福岡の衛生課に転勤していた森田訓導は、事件を聞いて駆けつけていましたが、北川君の血液型と自分のが同じと知るや、くるりと腕をまくり、血液をとって北川君に与えました。輸血後、北川君は、ややよろしいように見えましたが、これも最後の手段で、刻々悪くなるばかり、親様の必死の介抱の甲斐もなく遂に逝去したのであります。北川君は、入院中毎に向い「あたや、もう飛行機乗りにやなられめな」と。この一言。北川君の国に殉ずる心情をあらわすものとしみじみと感ずるのであります。
 こうして、次々と死亡される方を見られた親様のお心持はどんなてありましたでしようか。実に、病院は悽○そのものでありました。こうして、○○不安の病院の一夜はあけました。

負傷者のその後

 明くれば二十八日、病院は軍人の負傷者で一ぱいです。こうも沢山やられたかと驚くばかり。又、病院が爆撃されるとの事は、真実のように言われます。ここで、院長は子供の負傷者は、一広家に引きとるよう話されました。病院で何彼と親切に世話された一同は、このままいさせてもらいたいのは山々ですが、その日の夕方までに、全部引きあげることになりました。
早野正男君は、林病院に入院しましたが、正気づいたかと思えば、意識がなくなり、何べんか繰返す内軍歌をロざすみながら逝去したのであります。(二十八日夕方)
 早野正治君、だいぶんもてますので、この分ならばどうかと、やや希望をもつていましたが、やはり傷は重く途中から危くなり、一週間後の四月三日とうとうなくなりました。
 窪山安美君も、林病院に入院しました。大変元気者で、うわ言に「なによ」と敵慨心を発する程でありましたが、額を爆風でやられたところがなかなかなおりません。大変な親思いで「お父さん、あたしが賄わねばならぬのに、お父さんから賄われねばならなくなりましたなあ」と親のことを思っていたとのことであります。又、病院で空襲警報が発令されました時、「お父さん、あたしにやかもうことはいらぬから、あんた達は早く逃げなさい」ともいってくれたそうであります。こうした親思の子でありましたが、重傷には勝ち難く、五六日して頭が痛いと言い出し、八回目頃遂に前額部に脳を露出したそうであります。これで望みもなくなり、二日後の四月七日遂に死亡いたしました。こうして、重傷患者は、全部死亡されたわけであります。何と空襲の恐ろしい事でしょう。
ただ韓国に帰った玉山栄造君だけは、奇蹟的に助かりました。
 軽傷で全快された方、深江旭君以下敬称賂、今村義幸、田中幸雄、窪山フクヨ、窪山茂八郎、深町貴美子、窪山強一、窪山虎夫、石井廣の諸君は本当によかったと思っています。

親様の愛情

 こうして三十一名の死者を出したのでありますが、親様の子を思われる愛情は、日に日に募るばかり。特に、五ケ月後終戦となるや、逝かれしお子様を思慕される心は、いやますばかりであります。
 平和になって、無事に通学している他のお子様を見られた時のお心持は、いかがでありましよう。この子供いとしさの心は、凝つて遂にお子様冥福の為に、ここに延命地蔵尊建立の挙となりました。
 一ツ木神社の南側に奇麗な地蔵様が出来ました。
 私は、この地蔵尊は、子供可愛さ、子供いとしさ、子供あわれさの親心の現れであると思いまして思わず頭が下り、親様の有難さを真に尊く感ずる次第であります。不運に倒れられた三十一名のお子様方も、さぞ有難く安らかにお眠りになっていることと信じます。
 以上、当時の模様を記録し、私の感情を記して、三十一名のお子様の冥福を祈りつつ○筆いたします。

教育祭合記者第一回報告分

 昭和二十年九月十八日 第十回数育祭合杞該当者氏名

 遭難顛末
 昭和二十年三月二十七日、修業式を本校講堂にて挙行、学校長訓辞中、警戒警報発令、直ちに全児童は隣組別にわかれて、かねて訓練せる通り待避帰途につく、帰途空襲警報発令。敵B29編隊頭上に現われ、大刀洗航空隊施設に対し投弾を開始す。一ツ本部落児童(学校より一粁以上)は、部落主任訓導附添い、その指揮によって学校より三百米離れたる頓田部落森林の中に待避せるが、該森林附近及び生徒隊軍事施設一帯に数十個の爆弾投下、瞬時にし二十数名の児童現場に爆死。重傷者は、附近の大刀洗陸軍病院に収容治療を加えたるも、その複数名死亡し、計三十一名の遭難者を出せり。

備 考
 敵機の投弾は、遭難地より三百米以上離れたる大刀洗生徒隊施設を目標とせるものと推定せられるるも、不幸照準誤りて、この難に遭えるものと思われる。

学校日誌

昭和二十年三月二十七日
火曜日 天気晴

一、修業式途中午前十時過ヨリ約二時間二渉り空襲ラ受ク、額田部落二爆弾投下、待避中ノーツ木地方児童二多数ノ死傷者ヲ出ス

一、陸軍病院二収容、全職員徹宵看護ヲナス

補 記

遭難当時を語る会

 一ツ木児童遭難顛末記を刊行するに当って、当時の模様を確認し、補足すべき意味で、去る六月九日、当時の学校の職員代表と、一ツ木児童で九死に一生を得られた方々にお集り願って、当時を語る会を開催しました。

当日の出席者
小西光次郎氏(教 頭)
串尾 故実氏(一ツ木地方担任で当日の引率訓導)
長原  徳氏(六年生担任)
古川 文江氏(六年生担任、一ツ木担任当日学校待機、旧姓床島)
早野  誠氏(当時の初等科一年生)
窪山 強一氏( 〃    二年生)
北川キクヨ氏( 〃    三年生 旧姓深江)
別府 治彦氏( 〃    四年生)
田中 正行氏( 〃    五年生)
石松タキノ氏( 〃 高等科一年生 旧姓早野)
深江  旭氏( 〃    二年生)
川村 重利氏( 〃    二年生 現PTA会長)

当日は和池水教頭の司会によって座談会形式で当時を語ってもらったが、先の高山先生の手記が、よく当時のことを伝えてあるので、重複をさけ、要約して補記としたい。
当日は朝からすばらしい快晴であった。修業式の最中、警戒警報のサイレンが鳴り出すと、校長の訓話中であったが、児童遠の中から、ざわめきが起った。というのは、その日まで警戒警報は出ても一度も空襲警報が出たことはなく、警戒警報が出ると直ぐ地方別に帰宅することになっていたので、子供心にサイレンが鳴り出すと、家へ帰れるという期待で心が躍ったというのである。
しかし、その日はいつもと様子が違っていた。訓訪中の校長の命で、ラジオ放送を確かめに女の先生が行って聞もなく、五分位後には空襲警報になった。
直ぐ避難がはしまった。講堂を出て地方別に集合することも、日頃の訓練が出来ているので素早く、地方担任の引卒で、それぞれの地方へ向って走り出して行った。しかも空襲の経験のない子供達には、空襲の恐さなどわからず、ただ早く帰りたいとひたすら駆けていた。敵機B29を見たこともない者には、青空にキラキラと銀翼をつらねる編隊にも爆撃がはじまるまで.、実感が湧かなかったのが本当かと思われる。
一ツ木地方は、中尾訓導の引卒で、学校より生徒隊への直線道路をひた走りに走っていった。
大添橋を渡って生徒隊の裏門附近へさしかかった時、B29の先頭編隊による大刀洗飛行場を爆撃するものすごい爆発音の轟を聞き、児童達はあわててI附近の溝の中に飛びこんで待避した。
地図でわかるように、一ツ木部落は、生徒隊と大刀洗を結ぶ重要な軍用道路が中央を通り、生徒隊と陸軍病院の直ぐ西方に位置する地帯にあり、待避した地点は、敵機の爆撃目標のただ中とも考えられる場所であった。
敵機の意図は、大刀洗飛行場と共に、それに附属する施設と考えられ、生徒隊から大刀洗へ至る間は、当然爆撃の対象と考えられたのである。いづれにしても、現在待避している地点は危険であることはよくわかっているが、目の前にある一ツ木部落も又、ここ以上に危険であると思われる。
みすみす爆撃の危険の多い部落へ帰らせるべきかどうか。しかも爆撃は、すでに始まっている。進むぺぎか、退くぺきか。つぎつぎに頭上に現れる敵機の編隊に、もはや一刻の猶予も許されないのである。
中尾訓導が判断に迷っている時、生徒隊の土手の上から、将校と下士官らしい二人が「何をそこで、ぐずくしているのか。早く退避せんと、ここは危いではないか。早く学校の方へ引きかえせ。」とどなられたのである。この大声が、頓田の森への退避を決定づけることになったのである。
溝から飛び出し生徒達は、一目散に桑畑の中を駆けて森へ向っていった。そして、森へ駆けこむと、日頃の訓練通り大木の根方に、隣組毎に集まって伏せたのである。
中尾訓導は、大急ぎで、それらの生徒達の人員を調べてみると、数名の子供が来ていないことがわかった。みんなの居場所がわからないでいるのか。こわくなって途中でまごついているのか。いづれにしても、一刻も早く探さなくてはならない。逃げおくれた子供達については、座談会の別府氏等の話を綜合すると、その目先頭切つて走つていて爆撃音で溝にかくれた別府君達は、いざ引き返す段になると、一番びりつこになつてしまつた。そこへ、こわくなって泣き出してまごまごしている女の子もいて、それをかばいながら走つたが、みんなにはぐれてしまい、大添橋を渡ったところで別府君等四人は溝に飛びこんで危く難をまぬがれたというのである。又、別府氏の姉達三人は、こわくなって陸軍病院への曲り角にあった一軒家の防空壕に飛びこんで、これ又難をまぬかれていたというのである。しかし、中尾訓導には、逃げおくれている子供達のことが気が気ではない。
丁度、その日、一年生の中村君のお母さんは、子供につき添つて学校に来ておられて、赤ちゃんを背負われたまま一緒に森へも避難して来られていたのである。中尾訓導は、その中村さんに待避している子供のことをお願いして、逃げおくれた子供達を探しに森から、生徒隊の方へ向って百メートル程走った時である。
突然、森に大爆発が起った。散発の面繋弾が森に命中したのである。びっくりした中尾訓導は、森へ引きかえしてみた。大惨事である。一人では、どうすることも出来ない修羅場となっている。泥まみれの中尾訓導は、どこをどう走ったかわからないが、とにかく校長への報告と救援を仰ぐべく学校へ走ったのである。
一方、学校では、地方へ行った先生も次々に戻ってきて大刀洗方面の爆撃に恐れをなし防空壕に待避している時、防空壕をゆるがす爆発音と共に爆風は屋根の瓦を吹きとばし、ガラス窓が破れる等で近くに直撃弾が落ち生きた心地もしなかつたのであるが、それが頓田の森で児童の大惨事に至っていることは知る由もなかった。そして、負傷した頓田の人々が幾人も学校へ傷の手当を頼みに来たので居合せた女の先生達で出来るだけの治療をしてやっていた。
そこへ土まみれの中尾訓導が悲報をもたらしたのである。居合せた者は愕然となったが、倉地校長は、直ぐ小西教頭と豊原訓導に現場へ急行するよう命じた。現場へ走った両氏は、現場を素早く調査し、小西教頭は校長への報告のため学校へ引きかえしていった。
その間職員も次々と現場へ駆けつけ、現場に待っていた豊原訓導と共に救援活動を開始したのである。又、元気のよい高等科の生徒達も事件を聞いてかけつけ、先生に力を貸して懸命に活動してくれていた。学校よりの急報で 次第に人々もかけつけ救援活動も活発になった。
救出のためバスも一台(多分西鉄より廻されたものと思われる)来たが そこまでは重傷者を戸板などで運ぶより方法がなかった。
しばらくして陸軍病院からも駆けつけてもらつたので担架も使用するようになつたし、応急処置もしてもらえるようになつた。
かくして、第一車に、高山、豊原、古川訓導も乗りこんで陸軍病院へ向つたのであるが衛門で、押問答したことは高山先生の手記にある通りである。その運ぶ途中、重傷の北川伊助言が豊原訓導に向って「先生、僕の手がありますか。手がないと予科連へ行けませんから」とたずねた言葉が今でも痛い程耳に残って忘れられないということである。
以上、出来るだけ高山先生の手記との重複をさけ、手記にない部分を記録して補記とする次第である。

(文責 校長 矢野 毅)