私たちに続く戦争を知らない世代に
1981年、甘木・朝倉に残る戦争の爪あとを後世に残したいという想いで、頓田の森を造成することとなりました。
当時の先輩方の想いを記します。
私達につづく戦争を知らない世代に!
昭和16年12月8日日曜日(晴)、日本軍はパール・ハーバを空襲した。太平洋戦争への突入であった・・・・・・。
昭和20年8月6日・9日と広島、長崎に原子爆弾投下、同9月2日、ミズリー号上にて降伏文書に調印で戦争は終結した。この間約310万の貴重な人命が奪われた。この310万の中に罪も何にもない子供達が何万と犠牲になったのを私達は知らない。多大であった事は事実であったろう。
終戦後35年。平和な田園都市「甘木・朝倉」に於いて、ある高校の教師が太刀洗から通学している生徒に対し、「太刀洗に飛行場があったのは知っとるやろうもん」と質問したが、答えは否であった。この話を聞いて、私達は先生程ではないがショックを受けたのであったが、又ある反面、あの忌まわしい出来事は遠い過去となって風化されていくのも現実であろう。
昭和20年3月27日午前10時40分、サイパン島を離陸したB29・74機は太刀洗飛行場を爆撃した。当時は立石小学校に於いて、終業式があっていたが、米軍機の飛来により全児童は部落ごとに下校した訳であった。第4編隊の先頭の隊長機は爆撃照準機の故障の為、太刀洗飛行場と生徒隊(元甘中跡)を間違ってボタンを押した。一度に14発即ち100m間隔で投下され、その内の一発が頓田の森に落ちたのである。31名の児童が犠牲となった。
私達は1980年、1981年と2年にわたり「日本の安全と防衛」に取り組む。1年目はスケールの大きいテーマに対し、どう取り組んだらいいのかと、とまどいを覚えた。しかも地元に於いて、安全とは何か・防衛とは何かを考えた場合、何を議論し、何を討議し、地域住民との輪をひろげていけばいいのだろうか。—-1年が過ぎた。—-
国際関係委員会は1月、朝倉高校の桑原先生をゲスト講師として委員会を開催した。先生は太刀洗空襲の話を、淡々と何の力みもなく語って下さった。「私は自分のできる範囲で、これだけの資料を集めた。アメリカ国防省に手紙を書き、爆撃の資料を手に入れ、日本語に訳しています」と。私達はここに、自分達の「安全と防衛」を見出したのであった。まなこからウロコが取れる様に。
地元でそれも身近な所で、戦争の忌まわしい出来事があったのである。
安全とは何か、防衛とは何か、を今まで私達なりに考えた。「戦争を二度と再び起さないこと」これが真の「日本の安全と防衛」につながるのではなかろうかと。
私達、国際関係のメンバーは、桑原先生の貴重な資料を一冊の本にすべく努力しています。又、31名の児童が爆撃を受けた場所が、現在そのまま残っています。その場所を何らかの形で、後に続く戦争を知らない世代に残してやりたいと切に願います。
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